サイヒロコ×マルコの蔵 歴史

マルコの蔵の歴史

金山町街角交流施設マルコマルコの蔵は、金山町が進める「街並みづくり100年運動」のシンボルとして、「交流・文化の発展、人と人が集い、語らい合う、町づくり交流促進の拠点」を目指して、平成22年度から平成24年度に掛けて整備した施設です。

施設は土蔵2棟と広場からなり、土蔵2棟につきましてはこの地にお住まいでありました西田家よりご寄附いただいたものです。二つの蔵はいずれも、明治の時代に建築されたものであり、幾度か修繕は行われておりますが、木組みや使われている材料など、西田家の歴史と金山大工の技が伝わる建物でした。この度の整備では、その特長を活かしながら現代の大工の技を組み入れ、次代に繋ぐべき「杉の町金山」のシンボル的な建物と生まれ変わりました。

西田家の出自についての記録はないが、同一先祖から出ている新庄市の西田五兵衛家には、次のように伝えられています。

西田家は、新庄藩祖戸沢政盛ゆかりの仙北角館(秋田県仙北市角館)から当地に入ったが、金山に留まったのはその本家で、新庄には西田五兵衛(仙北屋)と西田吉兵衛(仙南屋)が住みつきました。金山の西田家はマルコを屋号とし、小間物・雑貨・海産物などを広く商っていました。  金山町第一の老舗である西田家がここに移ったとみられる元和八年(1622)頃は、新庄をしのぐ活潑な町であったから、かなりの資金ができたとみられ、その一部をもって本町、田屋地区の開田にあたったことが知られています。

やがて、新庄藩の譜代町人になっています。新庄藩では何人かの譜代町人を指定し、その一致した藩財政に関する意見を町奉行を通して上申することを求めており、西田家は財政顧問役ともいうべき富商の一人でした。また、商人である一面、藩の荒田開発にかかわっていました。領内には耕作者がなく荒れ田になっている所が相当あったとみられ、譜代町人としての西田家は、この耕地に関し意見を具申して採用されました。荒田仕付け後の特典は三カ年の年貢免除が慣例で、年貢の減額については実地調査の上とりはからうので、荒田仕付けを早く進めるように、というのです。西田家は荒所仕付けに関する公用で、藩内の村々の巡回指導をしていたものとみられます。

宝暦十三年(1763)前後に西田茂兵衛が十日町の庄屋でありました。それから明和・安永・寛政にかけて譜代町人として有力な存在でした。以来、金山町や新庄市において老舗の商人として歴史を刻んできました。

西田家はマルコを屋号とする金山の最も古い商家であったが、宿場町という地の利を生かし大いに繁栄しました。同家は正徳(1711~15)年間の頃、田屋方面に堤を築き新田を開発していました。当時の西田家の力は、田屋と這坂越という山道を通じて交渉のあった中田村まで及んでおり、田屋・羽場はもちろん、十日町・七日町・山崎方面にまであったものと思われています。

正徳三年(1713)の古文書によると「羽場村の百姓孫市が権利をもつ未開地(野丁)を開田するため、十日町の西田庄兵衛の資金によって用水堤を築く十日町の村役人を通し藩庁に願い出ました。羽場村百姓孫市は、巳の年御物成不足のため西田から金十二両を借受け、その代償として野丁を西田家に永代渡しにしている。」という記述があります。
このように、正徳三年末から堤を築き開田に着手したとみられます。大小二つの堤を築き、どれほどの田が開かれたものか、地主として西田家と耕作農民の間にどのような関係があったかはっきりしている村落名として今も残る「田屋」の地名はこの関係を物語っているのではないでしょうか。 田屋とは開墾地にたてられた出作小屋を意味しています。《日本史用語辞典より》

大小二つの堤は、現在もあり、土手には猪の沢のシダレ桜と呼ばれる大きな一本桜が植えられ、春には多くの人を魅了しています。
また、堤のほとりには、「湖畔亭」と呼ばれる別荘(大正八年建設)があったが、現在は取り壊されています。当時としては、水の眺望の金山の名所でした。

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